1993年10月28日、カタールの首都ドーハで、サッカーの国際試合、日本対イラクの試合がありました。翌94年開催のFIFAワールドカップアジア地区最終予選の最終節、最終戦で、この試合に勝てば日本代表の本大会出場が決まるという重要な試合でした。
前半5分、中山雅史のポストプレーから長谷川健太がシュート、クロスバーにあたり跳ね返ったところを、三浦知良がシュートして先制。その後1-0のまま前半が終了しました。
後半開始まもなく、イラク代表のアーメド・ラディのゴールにより、試合は1-1の同点となります。しかしその後、ラモス瑠偉のスルーパスを受けた中山がシュートを決め、日本代表は再び2-1とリードします。
このままいくかと思われた終了間際のロスタイム。センタリングからオムラム・サルマンのヘディングシュートが、日本ゴールに突き刺さりました。2-2の同点。他会場での試合結果により、日本代表のワールドカップ出場はなくなりました。いわゆる「ドーハの悲劇」です。
※私はサッカーに詳しくなく、実際にも観ていないので間違いがあれば指摘してください。
この試合を、当時小学6年だった兄は、父とともに食い入るように観ていたといいます。「いづまで起きてんなや(いつまで起きているの)。早く寝ろ」と小言を言う祖母に、父は「ふたりでこんなすげえ試合観られんの、今日が最後かもしんにぇなだぞ(しれないんだぞ)。母ちゃんこそ早く寝ろは」と言い返したそうです。
試合が終わってしばらくして父が兄の寝室をのぞくと、兄はまだ起きていました。もう0時をまわっていたのではないでしょうか。父が電気を消そうとすると「電気消さねで。つけででけろ(電気を消さないで。つけていて)」と兄は言いました。これが、兄と父が交わした最後の会話となりました。
「眠れないなら、一緒に寝てやればよかった」父は後にこう記しています。
翌29日午後3時ごろ。兄はテレビゲーム中にてんかん発作を起こし、一時心肺停止状態に陥りました。その後の処置で蘇生したものの、住んでいた町の病院では対応が難しいことから、その日のうちに兄は隣県の福島の病院へ移送されました。
救急車で約1時間半。兄はなんとか心臓の鼓動を保ったまま、移送先の病院へ到着することができました。しかし、約一週間の集中治療室での治療で改善はみられず、全ての検査において変化なし、一部は悪化もみられたと聞きます。
さらに脳・神経系統についても一切の反応がなく、「脳死」状態だということが告げられました。「現代医学の限界」「治る見込みはほぼない」「11月いっぱいくらいの命」と、かなり厳しい説明を受けたようです。
しかし兄は、再び意識を取り戻すことこそありませんでしたが、その後3年8カ月を生きました。福島の病院には1カ月ほどお世話になり、兄はまた生まれ故郷の公立病院に戻りました。
その間、一時は、微弱な脳波の再出現や自発呼吸など、ほとんど不可能だと言われていた回復を見せてくれました。それは当時、一部医学論文に発表されたほど、珍しいことでした。
また、51日間という短い期間でしたが、兄は自宅に戻り家族とともに過ごしました。
こういう体験があるので、私は「脳死」や、人の「生死」とそれに関わる「尊厳」といった問題に、関心を持ち続けています。このあたりのことはまた別の機会に、細々と書いていきたいと思います。
兄の葬儀の時、主治医の先生方が3人、わざわざ自宅を訪れ焼香してくださったのを、今も鮮明に覚えています。当時私は中学2年生でした。
そしてこの3月、パートナー・ウネリの転勤で福島市に越してくることになりました。子どものかかりつけ医が必要だと思い、インターネットなどで探しているうちに、兄の主治医のうちのお二人が、市内で小児科クリニックを開院されていることを知りました。
すぐにでも、お礼を言いに伺いたいという気持ちがわいてきた一方で、兄の闘病時のことを思い出す怖さもあり、再会した時に平静を保てるか不安もありました。
兄が福島の病院にいた時期、両親は病院に付き切り、私は途中からは地元の学校への登校を再開しました。そして放課後、祖父や親戚の車で病院に行き、兄と短い面会をした後、また自宅へ戻るという毎日でした。こういう背景があり、福島という地には個人的に、特別で複雑な思いを持ち続けていました。
そんなことを思いつつも、新型コロナの感染拡大があり、福島に引っ越してきてからは医療機関への足も遠のいていました。幸いその間、子どもたちが具合を悪くすることもなく、差し迫った受診の必要がなかったため、そのまま3カ月が過ぎていきました。
7月に入ったある日、三男に軽い風邪症状と皮膚の荒れが見られたこと、次男がワクチン接種期だったこと、長男にも帯状疱疹の初期症状(長男は疲労が原因とみられる帯状疱疹をこれまでも数回発症しています)がみられたことから、小児科を受診することにしました。
市内に小児科はたくさんありますが、偶然にも兄の元主治医のクリニックのひとつは、自宅からとても近い距離にありました。前述したようなためらい、迷いもあったのですが、何より兄を診ていただいた時の対応から、信頼できる医師だと感じていたので、やはりそのクリニックを受診することにしました。
長男、三男はいずれも軽症であるとわかり、残るは次男のワクチンのみとなりました。院内は空いていましたが、一、二組ほかの患者さんもいらっしゃいましたから、長話をするわけにはいかないと思い、看護師さんがワクチンの準備をされている際に短く、切り出しました。
「私○○〇〇の妹です。兄が本当に、大変お世話になりました」
医師は大変驚かれていましたが、兄を診てくださっていた時と変わらない優しい口調で、二言、三言、会話を交わしました。その後、ワクチンを終えた次男へ笑顔で
「がんばったね。またいつでも来てくださいね」
と声をかけてくださいました。
取り乱すことなく、お礼を言えたことに、心から安堵し、何かから解放されたような気がしました。反面、心が大きく揺れ動き、帰宅後はばたりと眠り込んでしまい、夜はほとんど眠れませんでした。苦しくて、ひたすら音楽を聴いていました。
兄のことはやはり、私の中ではまだ到底過去のことになっていないのかもしれません。
それでもやはり福島にいるうちに、もう一人の主治医にもお会いしておきたいと思っています。
福島に居続けられる3カ月を、大切に過ごしていきたいと思います。
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