皆さん、福島第一原発から3キロ圏内の地域がいまどのような状況か、ご存じでしょうか? 

3キロ圏内は2011年3月11日夜9時に、避難指示が出されました。それ以来、人が住めない土地となり、今は除染などで出た放射性廃棄物を保管する「中間貯蔵施設」が作られようとしています。

この地域がどうなっているかは世の中の関心事だと思いますが、何しろ「通行禁止」のため、一般の人はなかなか入ることができません。ウネリウネラは4月上旬、この3キロ圏内に住んでいた鵜沼久江さんがご自宅に一時帰宅するのに同行させてもらいましたので、その様子を2回にわたって報告します。

1回目は鵜沼さんのご自宅の様子です。

鵜沼さんは双葉町内の第一原発から北へ2.5キロほど行ったところの地域に住んでいました。3月12日午前に3キロ圏外へ避難し、その後は多くの双葉町民とともに埼玉県加須市に移動。いまも加須市内で暮らしています。

双葉町内を車で走っていると、あちこちに「この先帰還困難区域につき通行止め」という看板があります。その先の道路には、蛇腹状の金属のゲートがあり、カギがしまっていて通れなくなっています。

鵜沼さんはこのゲートの一つの前で、車を止めました。

ゲートは無人です。誰もいません。どうするのかなと思っていると、鵜沼さんは電話をかけはじめました。

すると数分後、警備員がやってきました。

ゲートの前に張り紙があり、電話番号が書いてあるのです。この番号にかけると、近くにいる警備員が駆けつけ、通行証や同行者の身分証を確認。それらが終わってはじめてゲートを開けてもらえる、という流れのようです。

全員の身分チェックを終え、ゲートを過ぎると、鵜沼さんはいよいよ自宅のある方へ車を走らせて行きました。

しかし、ゲートを過ぎた直後から、周りの様子が変わることに気づきます。ススキやセイタカアワダチソウが伸び、ハンノキが茂り、まるで林の中を走っているような感覚になるのです。

鵜沼さんによると、このあたり一帯はもともと、見晴らしのいい田んぼだったそうです。10年間ひとが住まなかったあいだに、集落の様子は変わり果ててしまいました。

しばらく走ると、青い壁の建物が見えてきます。これが、鵜沼さんの牛舎です。

鵜沼さん一家は、50頭ほどの牛を飼っていました。母牛に子牛を産ませ、市場でセリにかける繁殖農家だったのです。

原発事故で避難指示が出たため、鵜沼さん一家は牛を置き去りにするしかありませんでした。避難所に向かうときは、あるだけのエサを出してあげたそうです。

しかし、避難は長期化し、ほとんどすべての牛たちは餓死してしまいました。大事に育てた牛たちを守れなかった悲しさは、察するに余りあります。

薄暗い牛舎の中に入っていくと、鵜沼さんがポツンと、こんなことをつぶやきました。


「ここにくるとね、今でもこういうものを見つけてしまうんです」

鵜沼さんが指さすところには、牛の骨が落ちていました。
注意して見ていくと、牛舎の至るところに牛の骨がありました。

つぎに紹介してもらったのが、鵜沼さんのご自宅です。建物全体が、朽ちようとしていました。

屋根がひしゃげ、壁が落ち、居間だった場所は床をつきぬけて竹が生えていました。


鵜沼さんは語ります。


「地震の揺れもすごかったですけど、家の中で壊れたところはなかったんですよ。こうなってしまったのは、ここに十年間戻ってこられなかったからです」

物干しざおには10年前に干したバスタオルが、そのままの形で残っていました。

鵜沼さんは10年前、この自宅の庭で被災しました。当時の揺れの激しさをこんな風に語ってくれました。


「立ってられないくらい揺れが激しくて、両手をついて四つん這いになりました。そうしたら、ちょうど左足と右足のあいだの地面が、地割れを起こしたんです。わたしはどっちに体重をかけたらいいの、って分からなくなりました」

でも、地震による建物の被害はほとんどなかったそうです。その後、避難させられ、10年家に戻れなかった間に、このような状態になってしまったのでした。

鵜沼さんの夫、一夫さんは、2017年に病気で亡くなりました。鵜沼さんはこう話します。


「この家を、多くの方に見てほしい。3キロ圏内の双葉町の事実を知ってほしい。家は壊れていっても、避難指示が解除されていないので、解体することもできません。どうすることもできないうちに、この10年が過ぎました。わたしも67歳になりました。年齢的にはこれから新しいことをするのも難しい。言いたいことは、『この10年をわたしたちに返して!』。それが一番言いたいことです」

鵜沼さんのご自宅を離れゲートに戻ると、また無人です。鵜沼さんが携帯を取り出し、警備員を呼びます。来たときと同じように、駆けつけた警備員が身分証を確認し、ゲートのかぎを開けてくれました。

わたしたちは30分ほどの滞在で、「帰還困難区域」を後にしました。

(次回につづきます)

※この取材は、首都圏で市民活動を行う渡辺政成さんや二橋元長さんの企画で実現しました。感謝申し上げます。

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