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	【雑談】映画「AFTER ME TOO」について（作品紹介） へのコメント	</title>
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	<description>物書きユニット「ウネリウネラ」公式サイト</description>
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		星野　勝弥 より		</title>
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		<dc:creator><![CDATA[星野　勝弥]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 12 Nov 2022 20:30:46 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[「me」の一人として……

もし、上映後、発言のきっかけがあったら、手を挙げて、以下のことを伝えようと、映画が終わった瞬間に思いました。
　何か、重い予感があって、映画館まで来ました。そして、予感が的中するように、映画の終盤に近付くにつれて、「me too」の[me]が、男性である自分を含むことを、想定したことのなかった自分に愕然としました。（具体的個別的”事件”の「加害者」として糾弾されたことのない男性も、”当事者”として、事件の苦痛への叫びという鏡に自分が見えるという意味で「me too」という意味で……）
「権力」「利害誘導」「暴力的優位」などで他者を（特にしばしば男性が女性を）深刻に傷つける、そういう事件は、性の衝動・欲求・行動が、今までの社会で捻じ曲げ抑圧されてきたこと全体の中で、人が相互に大切にしあえないという中で起きてくるのだろう。だから、逸脱的犯罪的性行動を戒め糾弾することだけで、そんな悲劇がなくなるのでなく、性行動においても、よりフランクな申し出や、拒絶が、お互いを記傷つけることなく営まれるところまで、人間社会を変えていく必要がある。「me too」運動は、その方向に向かって、勇気ある女性たちが踏み出した、大きな一歩なのだろう。
　そこまでは、車中で思いめぐらしていましたけれど、この映画に与えられた発見には至らずにいました。どうしても「同一」そのものの思いや感じ方を、直接には共有・認知できない他者性に対面しつつ営まれる身体相互の行動は、幼い頃や思春期から、老年期に至るまで、この身と、出会う他者の両方を、気づかぬままに（時に愛おしむつもりで）、傷つけてきたかもしれない。そういう非難や糾弾が自分に対し明確に受けたことのない男性個々人も、そういう社会的磁場において、性行動を営み、時に抑圧してきたし、はたから見れば、世間の道徳にも叶い、合法的で幸福に見える日常のなかで、やはり、そういう歪みを行動や、その結果として語られぬ歴史に刻んできたのだろうと、映画の（特に、4番目――）最後の部分が、迫ってきました。性的な意味で、「真摯」で「無辜」のつもりできた男の一人ひとりも、「自分は被害に遭わなかった」という女性の一人一人も、[me]が指示する（しうる）一人なのだと痛感しました。

「男である自分もmeの一人だったのだ」という発見を、言葉にすると『me too』運動の具体的個別的な重大さや行動の勇気をぼかしてしまいかねない危惧を感じますが、そのように受け止めてもよいとお考えでしょうか？」という質問発言を僕は自制してきました。しかし「トーク」の最後の部分で、牧内麻衣さんが発言していたことと、期せずして、内容が重なっていて驚きました。そして、出来事の個別性を、社会関係の全体性の中、あるいは普通の日常性の中で、（薄めることなく）敷衍し、深めることが重要だと考えてもよいのだと、meの一人として認めていただいた気がしました。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>「me」の一人として……</p>
<p>もし、上映後、発言のきっかけがあったら、手を挙げて、以下のことを伝えようと、映画が終わった瞬間に思いました。<br />
　何か、重い予感があって、映画館まで来ました。そして、予感が的中するように、映画の終盤に近付くにつれて、「me too」の[me]が、男性である自分を含むことを、想定したことのなかった自分に愕然としました。（具体的個別的”事件”の「加害者」として糾弾されたことのない男性も、”当事者”として、事件の苦痛への叫びという鏡に自分が見えるという意味で「me too」という意味で……）<br />
「権力」「利害誘導」「暴力的優位」などで他者を（特にしばしば男性が女性を）深刻に傷つける、そういう事件は、性の衝動・欲求・行動が、今までの社会で捻じ曲げ抑圧されてきたこと全体の中で、人が相互に大切にしあえないという中で起きてくるのだろう。だから、逸脱的犯罪的性行動を戒め糾弾することだけで、そんな悲劇がなくなるのでなく、性行動においても、よりフランクな申し出や、拒絶が、お互いを記傷つけることなく営まれるところまで、人間社会を変えていく必要がある。「me too」運動は、その方向に向かって、勇気ある女性たちが踏み出した、大きな一歩なのだろう。<br />
　そこまでは、車中で思いめぐらしていましたけれど、この映画に与えられた発見には至らずにいました。どうしても「同一」そのものの思いや感じ方を、直接には共有・認知できない他者性に対面しつつ営まれる身体相互の行動は、幼い頃や思春期から、老年期に至るまで、この身と、出会う他者の両方を、気づかぬままに（時に愛おしむつもりで）、傷つけてきたかもしれない。そういう非難や糾弾が自分に対し明確に受けたことのない男性個々人も、そういう社会的磁場において、性行動を営み、時に抑圧してきたし、はたから見れば、世間の道徳にも叶い、合法的で幸福に見える日常のなかで、やはり、そういう歪みを行動や、その結果として語られぬ歴史に刻んできたのだろうと、映画の（特に、4番目――）最後の部分が、迫ってきました。性的な意味で、「真摯」で「無辜」のつもりできた男の一人ひとりも、「自分は被害に遭わなかった」という女性の一人一人も、[me]が指示する（しうる）一人なのだと痛感しました。</p>
<p>「男である自分もmeの一人だったのだ」という発見を、言葉にすると『me too』運動の具体的個別的な重大さや行動の勇気をぼかしてしまいかねない危惧を感じますが、そのように受け止めてもよいとお考えでしょうか？」という質問発言を僕は自制してきました。しかし「トーク」の最後の部分で、牧内麻衣さんが発言していたことと、期せずして、内容が重なっていて驚きました。そして、出来事の個別性を、社会関係の全体性の中、あるいは普通の日常性の中で、（薄めることなく）敷衍し、深めることが重要だと考えてもよいのだと、meの一人として認めていただいた気がしました。</p>
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